日本國古文地図-日本,时代
桃山时代
江戸时代以前に作られた日本図に数少ない例のひとつ。山城?武蔵などの旧国名と、山城を中心として诸国へ道线が朱色で描かれている。これらは、奈良时代の僧行基(ぎょうき)が作成したといわれる极めて単纯な日本図(いわゆる「行基図」と呼ばれる日本総図)の特色である。しかし、九州の形态の良さ、各国名の横に记された石高、河川や半岛などを意识した描写などは、行基図よりも地図としての进歩がうかがえる。江戸时代になると徳川幕府を中心に地図作成がさかんになり、19世纪初めの伊能忠敬によって、正确な日本図ができあがる。本资料は、その前段阶の安土桃山时代の日本図として、极めて贵重なものである。
东海道路行之図
江戸时代 寛文年间(1661~1673)ごろ
わが国最古の刊行道中図で、印刷地図としても初期グループに属する。现存例が数点と极めて少なく、カナダのビーンズコレクション中に本资料と同一版のものが存在するが、国内にある别のものと比较すると微妙に版木が异なっており、少なくとも二度制版されたことがわかる。京都を図の上に、江戸を下にして、东海道のコースが一覧できるようになっている。また、道筋に沿って城下町を描き、藩主と石高を记入しているが、その藩主名は承応年间(1652~1655)ごろの大名配置状况を示している。刊行年は记されていないが、以上のことから「寛文(九年)版新板书籍目录」に记される道中図を本资料とみなすことができ、刊行时期もおのずと知られる。
天竺之図
江戸时代 寛延2年(1749)
近世以前の日本人の伝统的な世界観は、仏教の教义に基づくいわゆる三国(日本、中国、インド)世界観であり、それに基づく世界図を仏教系世界図といい、江戸时代においても引き続き热心に作成された。本図のように天竺(インド)の大きな陆地と、その东海上に日本を描き、天竺の仏迹案内として玄奘三蔵「大唐西域记」の旅程コースを朱线で引き、おびただしい地名を书いたものが、そのもともとの姿である。类例としてはわが国最古の世界図といわれる法隆寺蔵『天竺図』(镰仓时代)がある。原本はもと京都东寺にあったこと、それが东山正林寺に移り?延享元年(1744)片冈法眼幽竹が写し、さらにそれを転写したものである旨が资料の左右下に记される。
日本国地理测量之図
江戸时代后期
「大日本沿海舆地全図」の完成后、天文方高桥景保はそれを一望できる日本図を编成し、また忠敬の调査记录を网罗した『地势提要』も著した。本资料は后に両者の情报をひとつにまとめて编纂し直した日本図である。中央の日本図は伊能小図の西日本と东日本図を同缩尺で合わせ新たに朱の点线で国界线を记入しているが、方位线は消え景観描写もかなり雑になっている。周辺の▲印ごとに地名?纬度?江戸からの里程などの情报を『地势提要』から転写し、また図の余白には北极出土地(纬度)、东西里差(経度)、道路里程など忠敬の测量成果が数多く表示されている。同じ系统の地図は内阁文库などに数点现存するが、各地図ごとに缩尺、记载内容、表の数に多少の相违がみられる。